Salaryman's life ~リーマンズライフ 2013~ ヤマオカ マヒト showcase-VOICE-

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Salaryman's life ~リーマンズライフ 2013~

photo by ヤマオカ マヒト


僕にとって写真とは、それ単体では、決して表現手段でもなければ、芸術でもない。僕自身のスキルが表現たるレベルに達していないのは自覚しているが、それを差し置いても、写真なんて単なる事象のコピーでしかないと思っているからだ。
それでも僕は写真を撮る。それは日常をコピーする行為の意味しかなく、コピーは連続されて初めて意味をなす。確かに僕は写真を撮るが、目指すものは「写真を使った何か」なのだ。
田山花袋に代表される日本版の自然主義文学は、私小説というジャンルを生み出した。文学は最も想像力を刺激する芸術だ。それは映像とは違い、脳内に直接世界を投影し、その数は読者の数だけ無限に存在する。
文学をよりダイレクトに、僕の世界に限定して伝える手段。それが僕が発表し続けている写真文学だといえる。写真文学とは、本来写真に不足するデータを補う意味でのキャプションを主役に添えるだけではない。むしろ写真じたいは、テキストを補う「挿絵」程度の意味しか持たない。ただそこには写真だからこそ可能な、状況の限定と、リアルな空気感が存在するのも事実だ。写真を否定するものの、写真なしでは成り立たないのが、僕の作る文学だ。そして僕の文学は、紛れもなく自然主義の系統であり、私小説だと言える。
文学、とりわけ小説は、地の文と会話文で成立する。写真文学にとって、写真とは地の文であり、言葉は会話文に相当する。もちろん、すべてがその公式に当てはまる訳ではないが、地の文と会話文の連続によって物語が進行するのは、小説も写真文学も同じだ。
撮影は日常のコピーだと言ったが、それは同時に、心象風景のコピーであり、撮影したものを晒す時点で、強烈な心情吐露になる。それはともすれば露悪趣味になりかねないが、私小説など足下に及ばないレベルのインパクトを放つ。
僕が目指し、僕が求めるのは、自分自身の心情吐露と、その物語性の普遍化であり、意識的無意識的であれ、発生してしまった事象を、全肯定することだ。単なる日常を、写真と文章によって再構築することで、僕は僕自身の人生に対する許しを請うと言ってもいい。
本当の自分を晒すのは難しい。テキストではなく、写真を用いるのならなおさらだ。自分の恥部を画像にし、それを世間に発表するなんて、正気の沙汰とは思えない。しかし、正気ではないからこそ、画像として客観視できるからこそ、本来の目的である、自己の肯定を可能にするとも言える。誰も僕を肯定しない。誰も僕を許さない。なのであれば、自分自身を救済するのは、自分自身しかないのだ。そのためなら、僕は喜んで自分の恥や傷、一言でいえば痛みを晒す覚悟がある。


ヤマオカ マヒト

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